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靴のオーダー [ファッション]

 もう2年前の話ですが、靴のオーダーを経験しました。
7、8年前のブログでHIRO YANAGIMACHIというシューズメーカの工房を見学したことを書きましたが、その時に気に入ったデザインで注文しました。
デザインモデルがこれ。
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革を自分で選んで完成したのがこれ!
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以前はビジネス用途を考えていましたが、もう、リタイア寸前でカジュアルのほうがいいということでこういう色&革を選択しました。
 2018年の秋の東京出張の際に予約して採寸、革選びを行ない、2019年の春に完成しました。途中で製作過程を見たいと要望したところ快く応じて頂きアッパーの裁断工程を見せて頂きました。それ以外にも、底付けなどの高低の写真を撮ってもらい、後日、送って頂きました。
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 完全なオーダーではなく、既存のラスト(木型)に修正を加えるモディファイオーダーというものでしたが、これまでにないフィット感でした。
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 ただし、ここから履きならすまでが大変でした。最初はかかとが食い込んですぐ水膨れ、しばらくすると馴染んできましたが、最後まで苦しんだのは親指の付け根あたりの甲の部分。靴のアッパーが折れ曲がったしわがこの部分に当たって水膨れ! 
 あまり履く機会がなかったという事情もありますが、10カ月くらいかけて履きならすことができました。履き慣らしにここまで苦労したのは一番最初の本格靴以来でしたが、一度、そのフィット感を知ってしまうとそれ以外の靴がかなりルーズに感じられてきました。
 リタイアするときちっとした服装で出かける機会が少なくなりましたし、値段的にも結構したので、もう一度作ることは無いと思いますが、息子が興味を示せば一緒に作りたいなという気持ちはあります(^_^)

P.S.
この靴がHIRO YANAGIMACHIさんのfacebookで紹介されました。
2020年9月28日です。
https://www.facebook.com/HIROYANAGIMACHI
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趣味で振り返る人生(4)模型飛行機 [趣味人生]

 最初に書いたプラモデルの延長でいろんな模型作りが好きだが特に興味を持ったのが飛行機だった。「空中を飛ぶ」ということに魅力を感じていたのだと思う。最初は紙飛行機だった。その次は駄菓子屋で売ってた、胴体、主翼、尾翼を組み合わせて作る手投げ飛行機だった。この種のおもちゃは今でも安く売ってて、翼は発泡スチロール、胴体はプラスチックになっているが、当時はすべて紙だったように思う。胴体は薄い木だったかもしれない。胴体の先端に釣りに使うような鉛のおもりがついていた。
 小学校の高学年になるといわゆるライトプレーンをよく作った。
ライトプレーン.jpg
 竹ひごを熱で曲げ、ニューム管でつないで翼を作り、薄い和紙を貼って仕上げる。ゴム動力で飛ばすのだが、うまく作ると結構よく飛んだ。
 次にハマったのがタイガーロケッティという、固形燃料を使った模型ジェットエンジンの飛行機。
タイガーロケッティ.jpg
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 単2電池ぐらいの大きさのカプセル状のエンジンで、底部の中央に小さな孔が開いている。カプセルの中に固形燃料を入れて導火線で火をつけるとその孔からガスが噴出して推進力を得るというものである。燃焼時間は数10秒から1分以内だったと思うがバルサ材で作った機体はびっくりするほどよく飛んだのが忘れられない。
 中学に入る少し前にエンジン模型に興味を持つようになった。本当はラジコン飛行機が欲しかったのだが、送受信機が高価でお小遣いでは手が出なかった(>_<) そこで、始めたのが「Uコン」だった。
Uコン_アンサイクロペディア フリー百科事典零細のイラスト.jpg
(※アンサイクロペディア フリー百科事典零細のイラストより)
 近くに経験者がいたわけではないので、詳しいことはわからずに模型屋のおやじに聞きながら始めたように思う。当時、”Uコン技術”という雑誌があったのでそれが参考書だった。
Uコン技術.jpg
 最初は機体だけ買ってまず作り、たぶん、お正月のお年玉でエンジンやその他のパーツ・道具を買い揃えたように思う。最初はうまく飛ばせずにすぐ墜落させてしまい、機体の修理と墜落を何度繰り返したことか・・・ 中学に入ってからは仲の良い友人を引っ張り込んで、その後高校卒業まで二人でUコンを楽しんだ。エンジンも小さいものからかなり大きいものまで揃え、作った機体も10数機になると思う。市販のキットがほとんどだが、雑誌に掲載された製作記事と図面を基に自作したものもある。
Uコン01.jpg
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 最後に作ったのは雑誌に出ていた引き込み脚メカニズムを搭載したスピットファイアのスケール機だったが、これは、結局、完成まで至らず、今も実家の押し入れで眠っている(^_^;)
 高校卒業後、大学時代の友人が興味を示したので一度だけ飛ばして見せたことがあるがそれが最後になった。
 雑誌”Uコン技術”も私が社会人になるころには廃刊となり、模型屋でUコンを見ることもほとんどなくなって30~40年経ったが、今年の春ごろ、たまたま本屋でラジコン雑誌を開いたとき中高生時代にUコン技術でよく見た名前をいくつか見つけた。いずれも模型飛行機界では有名な方々だったが、一番高齢だった方がなくなったという訃報だった。本屋へはよく行くがその雑誌を手に取ることはほとんどなく、たまたま手にした時にそういう記事を見つけるというのはやはり縁があるのかなと感じた次第である。
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趣味で振り返る人生(3)読書②SF [趣味人生]

 前回、小説の好みはミステリーに偏っているという話をしたが、SF小説にも特に気に入っているものがいくつかある。SFを読むようになったのは中学時代の友人の影響が大きかった。この友人はSF大好き人間で読書量も私よりずいぶん多かった。彼の勧めがあって、E.E,スミスのレンズマンシリーズや、当時、流行っていた小松左京などもいくつか読んだがハマるということはなかったように記憶している。それが、何がきっかけかは覚えていないが、E.R.バローズの「火星のプリンセス」を読んでハマってしまった。
火星のプリンセス.jpg
 特に、凝った内容ではなく、よくあるヒーローの冒険小説という感じだったが、とにかくスピーディーな展開と主人公の圧倒的強さの爽快感が気に入って、火星シリーズ、金星シリーズなど15冊ほどを次々に読んだ。ただ、ストーリーはどれも単純なので、最後のほうはやや飽きた感じもあった。また、E.R.バローズはターザンシリーズやペルシダーシリーズも有名だが、そちらはほとんど読んだ記憶がない。「火星のプリンセス」は2012年にディズニーが鳴り物入りで映画化したので、若い頃にワクワクしながら読んだことを思い出しながら大いに楽しめた。ただし、映画としてはハズレ作だったらしい。
 他の作品では、ありきたりだがI.アシモフのファウンデーションシリーズが印象的だった。
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 当時は創元推理文庫版の「銀河帝国の興亡」3部作だけだったが、10数年後に続編が出てきたのに驚いた。ミステリーとは違った壮大なスケールでのストーリー展開にSFの魅力を感じた作品だった。
 その後、もっとも好きになったのがJ.P.ホーガンだ。
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 ハードSFと言われるジャンルの作家で、「星を継ぐもの」から始まる巨人たちの星シリーズは人類や地球の起源にまつわる謎解きが盛り込まれ、ミステリー好きの私の趣味に合ったといえる。荒唐無稽な夢物語的なストーリー展開ではなく、(疑似)科学的、論理的な説明が尽くされる展開が私には「新しいSF小説!」という感じだった。巨人シリーズ以外の作品も翻訳されたものはほとんど読んだと思う。ただ、2010年に69歳で亡くなられて、書きかけのクロニア人三部作の第3巻が未完成になったのが残念である。


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趣味で振り返る人生(2)読書①ミステリ [趣味人生]

 小学校の頃に興味を持って今も続いてる趣味というと読書がある。ただ、読むジャンルはかなり偏っていてメインはミステリ小説。当時は推理小説、あるいは探偵小説と言われていた分野である。もともと家にいるより室外を走り回るほうが好きなタイプだったので「本が好き!」というわけではなかった。ぼんやりした記憶だが、小2の頃に家にあった子供向けの世界名作文学全集を父親が読み聞かせをしてくれたのがきっかけになったように思う。全集なので数十冊あったのだが、その中に「シャーロック・ホームズの冒険」があり、父親が「これは面白いよ」と言っていたのを覚えていて、小3か小4になってから自分で読んでみてホームズの虜になった。ちなみに、父親が読み聞かせてくれたのはギリシャ神話やオデュッセイアで、これは、後々、世界史や古代史に興味を持つきっかけになったと思う。
 全集に収められていたホームズ譚は数編あったと思うが、すぐに読み終えて別の話が読みたくなった。当時、普通の文庫本を読むような年齢ではなく子供向けの単行本を片っ端から買ってもらった。オリジナルのホームズ譚は4つの長編と5つの短編集があるのだが、その頃はそんなことも知らずに読んでないタイトルを探して買い足していった記憶がある。たぶん、20~30冊はあったと思う。偕成社だったかな? ポプラ社だったかな?
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 ホームズをきっかけとして、怪盗ルパンのM.ルブランや明智小五郎の江古川乱歩も読むようになった。
 中学生になって普通の文庫本を読むようになり、最初にはまったのがE.クイーンの「国名シリーズ」だった。謎解きの前に「読者への挑戦状」というページがあり、「すべての証拠は提示してありますが、あなたは犯人が分かりますか?」と問いかけてくるのがなんとも楽しかった。クイーンに続いて、V.ダインやJ.D.カー、A.クリスティなどをよく読んだが、決して読書少年というわけではなかったので一部の作者を除いて、読んでない作品のほうが多い。
 また、翻訳ものが好きで国内ものはほとんど読んでいない。当時で言うと横溝正史、現在だと東野圭吾、京極夏彦、綾辻行人などは嫌いというわけではなく、むしろ、好きな内容だがほとんど読んでいないという偏ったミステリファンである。(老後に楽しみを取ってる?)
 推理小説を扱った雑誌としては当時から早川の「ミステリマガジン」があったが、それほど熱心に読んだ記憶はない。たぶん、短編にあまり興味がなかったので、文庫の長編のほうが良かったのだと思う。だが、もう少しあと(大学生ぐらい)になってから、「EQMM(エラリークイーンズミステリーマガジン)」の日本語版として「EQ」という雑誌が光文社から発行され、これは毎号購読した記憶がある。あとで知ったことだが、「ミステリマガジン」の前身として日本語版「EQMM」はすでに存在しており、「EQ」は翻訳の版権契約が早川から光文社に移ったことで生まれたらしい。この「EQ」も短編が中心であったが、強烈な印象が残っているのがローレンス・ブロックの悪徳弁護士エイレングラフである。L.ブロックはマット・スタガーや泥棒バーニィが有名なキャラクターで、エイレングラフはマイナーな存在だがその特異なキャラクターで忘れられなくなった。
 1988年から「このミステリーがすごい!」(通称このミス)という雑誌が毎年発行されるようになった。今、本棚を探してみると、1992年版まではすぐに見つかった。おそらく1988年版は購入していないが、1989年版の海外1位「羊たちの沈黙」、3位「古い骨」は印象に残っているので1989年版から購入していたように思う。以降は毎年ランキングに入った作品から数冊選んで読むようになった。大学生、社会人になってからも特に読書時間が増えたわけではないが、通勤・通学の電車内は新聞や漫画ではなく、いわゆる読書をすることが多かったので、文庫や新書を常に持ち歩いていた。ただし、社会人になってからは自己啓発本や仕事関係の専門書が多くなったし、趣味の雑誌もいくつかあったので小説の読書量は少なくなっていったように思う。

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趣味で振り返る人生(1)プラモデル [趣味人生]

 若い時から自分自身では割と多趣味だと思っているが、その最初が何だったのかと考えると4、5歳ころのプラモデルが最初だと思う。当時、50円ぐらいのちゃちな組立キットを母親が買ってきてくれたのが最初だと思う。たぶん、10個未満の数少ない部品を組み合わせるだけの簡単なものだったと記憶しているが、完全にはまってしまった。その頃から小学校の4、5年まではプラモデル熱が続いたと思う。覚えているのは、小学校2年のお誕生会で10人ぐらいの友人を自宅に招いたとき、一人を除いてみんながプラモデルをプレゼントに持ってきた。それぐらい、私のプラモ好きが知られていたということである。
 小学校低学年の頃は特に好きなジャンルはなく、プラモなら何でも良かったように思う。ウルトラマンやその怪獣のプラモもいろいろ作ったような気がする。動きのあるものも好きだったが、明かりが点いたりするのも好きだった。豆球よりももっと小さなムギ球というのがあって、車のライトや怪獣の目などを光らせていた記憶がある。
 嗜好が変わったのは3、4年生頃で、この頃は戦車のモデルに熱中していたように覚えている。ドイツの戦車が好きで、パンサーやタイガー、ロンメルといった名前が懐かしい。最初の頃はゴム製のキャタピラだったのが、途中からパーツを組み立てるタイプのキャタピラに変わって、非常にリアルになったのがうれしかった。
 この頃はプラモづくりも続けていたが飛行機に興味をもって、ライトプレーンもよく作ったし、タイガーロケッティという固形燃料を使った動力付きのグライダーも好きだった。さらに、小学校高学年になるとエンジン飛行機のUコンに興味が移っていったが、このあたりはまた別に書きたいと思う。
 プラモづくりは中学になっても続けていたがやはり興味は飛行機になっていた。ちょうどこの頃、「レベル」というメーカーの飛行機プラモを対象にした「プラプレーンコンテスト」というのがあって、各地の模型店が作品を募集し、最終的に日本一の出来栄えを競うというイベントだった。私のなじみの模型屋さんも作品の募集をしていたので2回ほど応募した。最初は「スピットファイア」、2度目は「ユンカース・スツーカ」だったと思う。逆だったかな? ピースコンを使って迷彩塗装に挑戦したが、あまり自慢できる出来栄えではなかった。ただ、田舎の模型店ということもあって応募者が少なく、その店の賞として最初は銀賞、2回目は金賞がもらえた。
 中学からは先に書いたようにUコンが趣味のメインとなってプラモづくりはだんだんと遠ざかってしまった。プラモに興味がなくなったわけではないが他のことに時間を割くことが多くなったということで、その後、どんなプラモを作ったかもあまり記憶がない。ただ、ガンプラは一つもやってない。
 そうそう、自分で乗った車の模型をいくつか作った。大学に入って運転免許を取り、家で買った車が日産バイオレットで、これのプラモを見つけて作った。これは今も実家においてある。そのあと就職してから自分で買った最初の車がマツダのコスモ。これもプラモを探して作り、今もリビングの棚に置いてある。
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そして、昨年買ったマツダ・ロードスターRFのプラモが今年の3月に発売されたので早速購入し、現在、製作を待っているところである。実車と同じ塗装をしようと準備中である。
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あと、変わったところでは数年前に盆栽のプラモを発見し、興味本位で作ってみた。盆栽そのものには興味はないが、なかなかリアルで気に入っている。
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新型コロナウイルスの影響 [その他]

 年初めから新型コロナウイルスの感染拡大で経験したことがない混乱が広がっている。戦争を知らない世代の私にとって人生最大の世界的混乱状態だと言える。最初に噂を聞いたのは1月初旬の訪韓時に、ネットで見た「中国で怪しげな肺炎が頻発している」という情報だったように思う。数年前にmersが流行った韓国だが、その時点では特に大きなニュースにはなっていなかった。1月半ばに特に問題なく帰国したが、1月下旬に日本で初の感染者が出てからから大きなニュースになって来た。

 2月半ばには日本よりも韓国での感染が広がり、2月末からの韓国業務は中止になった。それ以来、現在まで訪韓できていないし、今後の見通しも全く立たない。3~5月には別の韓国企業との新しい業務が決まり、契約書も交わしていたのだがこれも中断状態である。

 そんなわけで3月からはほとんど外出することがなくリアルリタイア状態になっている。もちろん、これまでの韓国業務はメールでのやり取りを続けているので全く仕事を離れているわけではないが昨年までと比べるとかなり違う働き方になっている。今後どうなるかはわからないが、まずは健康管理と体力維持を心掛けるとともに、新しい技術情報から離れないように努力をしたい。

 さて、このブログでは、昨年、技術者としての人生を振り返ってみたが、今年は趣味について振り返ろうと思っている。記憶のある3、4歳の頃からどんなことに興味を持っていたかを思い出していこうと思う。
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2019年大晦日 [その他]

前回のブログ更新からかなり空いて、もう大晦日になってしまいましたが、今年は「私の技術者人生」と題して学生時代から現在までの技術的な面での経緯をまとめてみました。これは、今年の目標の一つとして挙げていたことで、十分ではないですが何とかクリアしたなぁという感じです。来年も何かブログ目標を決めてトライしたいと思います。
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私の技術者人生(19) [技術者人生]

 昨年、還暦を迎えるにあたって非常に強く感じたのは何とも言えない「区切り感」でした。いわゆる、正規雇用のサラリーマンをやめているわけですから「定年」を迎えても変わることはほとんどありません。それがわかっていても強い「区切り感」を感じたというのは、それだけサラリーマン人生という意識が染みついていたということなんだと思います。私の父もサラリーマンでしたし・・・ 

 実際に60歳になると、ほとんど違いないというのはすぐにわかりました。明らかに変わったのは前職の企業年金が少し入るようになったことぐらいです(^.^)
今まで通り、ひと月の半分は海外、半分は国内でクライアントの対応をして、時々単発のセミナー講師をする、という生活が続いています。あと数年はこの状態が継続する予定です。

 ただ、ある意味で向上心がちょっと少なくなったかなぁ・・・という気がします。というのは、本屋へ行ったときに、これまでだと自分の専門技術以外の業界情報や自己啓発などのコーナーもよく眺めたのですが、それが少なくなったように思います。専門分野の情報収集意欲は変わりませんが、周辺の情報はそこまでしなくていいかなぁ・・・?という感じです(^^;)

 専門技術についてはまだまだやりたいことがあります。というか、これまでやってきたことで、分からないこと、納得できないことが山ほどあります。それらについては業務としてテーマアップ出来ればいいですが、出来なくてもライフワーク的に研究を続けていきたいなぁと考えています。昔と違って、パソコンでかなりのシミュレーションができますから、企業とつながらなくても個人で続けられる楽しみがあります。そのための準備は徐々に進めているところです。

 あと、もう少し若かったら本格的にやってみたかったと思うのがAI! AIの専門家になるということではなく、自分の専門分野にAIを取り込むことに興味があります。ものづくり技術の世界は個人のノウハウにかかわる部分が多く、それをいかに継承していくかということで10年ほど前にナレッジマネジメントが流行りましたが、その流れにAIが合流してきたと感じています。AIは、現在、第3次ブームといわれていますが、3~40年前の第2次ブームも経験した身として、今度こそものになるのでは?と期待しています。が、もう自分で取り組むのはやめて、外野からの見物を楽しみたいと思ってます(笑)

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私の技術者人生(18) [技術者人生]

 新しい生活が始まり、毎月2週間の海外業務をすることになりましたが、毎日びっしりと予定が詰まっているわけではありませんでした。技術相談(コンサル)が3~5件にセミナー講演が1回というのが平均的なスケジュールでした。したがって、2週間、つまり10日間のうち、2~3日はコンサルとセミナーでそれ以外の日はそのために資料作りという割り振りになりました。セミナーの内容はファンに関するものがメインで、設計から騒音対策の基礎的なところから始めて、最新の技術動向や論文紹介などを毎回1~2時間で行ないました。これを約2年間続けました。この間は毎月のセミナー資料作りが結構大変だったのですが、この時の資料は自分の専門技術をまとめたものになり、その後、あちこちで使うことができたので有益な時間でした。結果オーライになりますが、本来はこういうまとめを転職前にやっておくべきなんだろうな、と感じた次第です。

 一方、日本にいる2週間は遊んでいたわけではなく、日本での業務開拓を考えていました。といっても、営業活動が得意なわけではなく、前職でのつながりで仕事を続けていました。これは、予定していた契約ではなく、先方から要望されて出てきた仕事だったので、私としては非常にありがたい仕事でした。もともと前職では社内のある部署とファンに関する共同研究を行なっていたのですが、私が退職するにあたって代わりを務められる人材がいないということで、引き続き協力を頼まれたということです。技術者としてはちょっと胸を張りたくなる依頼でした。その後、このような前職がらみの仕事が他にも入ってきて、営業活動をすることなくクライアントが増えてきたのは本当にラッキーでした。また、このつながりで学会へ論文発表する機会も与えられ、技術者としての満足感も得ることができました。ただ、日本の仕事はボリューム的にはあまり多くなく(つまり、収入的にも多くなく)、日本にいるときはかなり自由時間があるという生活を送れましたので、これまたラッキーでした。普通に勤めていたら行けなかったであろう旅行にも行くことができました。

 あと、単発の業務として、ファンに関するセミナーの講師を務めることが数回ありました。これは、それ自体はたいした収入にはなりませんが、その時の受講生が新たなクライアントになる可能性があるので積極的に引き受けています。いわば営業活動です。この時に、上で述べた資料作りが役に立ちました。

 メインの海外業務は毎年の契約更新、国内の業務も半年毎か、毎月の発注という形でサラリーマン時代に比べると定年までの安定収入という点では大きな不安がありました。52歳で退職したので、いわゆる定年年齢の60歳まで8年ありました。この8年を無事に乗り切れれば、まずは、転職成功と考えてやってきました。そして、2018年8月、無事に還暦を迎えることができました。この8年間を振り返って、前職を続けていたら・・・と考えることもありますが、「やめてよかった」と自信を持って言えるのがうれしいです。

 現在、転職9年目です。昨年、60歳に達しましたが、まだ、年金はもらえません。私の場合、老齢厚生年金の特別支給がもらえるのが63歳からです。したがって、63歳までは今まで通りに働きたいというのが60歳到達時の次の目標になりました。今のところはほぼ順調に進んでいますが、60歳になってからの気持ちの変化というのは思った以上にありました。このあたりについては次回に書きたいと思います。

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私の技術者人生(17) [技術者人生]

 2011年5月から新しい生活が始まりました。ひと月の約半分、2週間を海外で暮らす生活です。海外での生活はもちろん初めて。海外への単身赴任がどうなるかは見当もつきませんでした。ただ、何でも食べられるのと、海外旅行は割と経験していたのであまり不安はありませんでした。

 5月から本格業務開始だったんですが、4月に、一度、現地へ行ってセミナーを行なうということがありました。常駐の通訳が居て、日本人を受け入れる環境は整っている印象を受けました。この時はホテルに泊まって1泊で帰ってきましたが、空港からの距離や会社の様子、街の様子を知ることができました。

 そして5月の本格業務開始。この時は2週間どこに泊まるのかも知らされずに現地に向かいました。結果的には会社の寮に泊まることになりました。その寮には同じ立場の日本人もいることがわかり、少し安心しました。

 翌日から本格業務開始。通訳さんは常駐しているんですが、私と同じような立場の日本人は数名いるので、常に一緒にいるわけではなかったのです。したがって、その時は担当者と英語でやり取りすることになりました。英語は苦手ですが、相手も母国語ではないので何とかやり取りできました。具体的な業務は、私の専門技術であるファンや流体に関する技術相談対応と毎月のセミナー開催ということになりました。
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