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私の技術者人生(19) [技術者人生]

 昨年、還暦を迎えるにあたって非常に強く感じたのは何とも言えない「区切り感」でした。いわゆる、正規雇用のサラリーマンをやめているわけですから「定年」を迎えても変わることはほとんどありません。それがわかっていても強い「区切り感」を感じたというのは、それだけサラリーマン人生という意識が染みついていたということなんだと思います。私の父もサラリーマンでしたし・・・ 

 実際に60歳になると、ほとんど違いないというのはすぐにわかりました。明らかに変わったのは前職の企業年金が少し入るようになったことぐらいです(^.^)
今まで通り、ひと月の半分は海外、半分は国内でクライアントの対応をして、時々単発のセミナー講師をする、という生活が続いています。あと数年はこの状態が継続する予定です。

 ただ、ある意味で向上心がちょっと少なくなったかなぁ・・・という気がします。というのは、本屋へ行ったときに、これまでだと自分の専門技術以外の業界情報や自己啓発などのコーナーもよく眺めたのですが、それが少なくなったように思います。専門分野の情報収集意欲は変わりませんが、周辺の情報はそこまでしなくていいかなぁ・・・?という感じです(^^;)

 専門技術についてはまだまだやりたいことがあります。というか、これまでやってきたことで、分からないこと、納得できないことが山ほどあります。それらについては業務としてテーマアップ出来ればいいですが、出来なくてもライフワーク的に研究を続けていきたいなぁと考えています。昔と違って、パソコンでかなりのシミュレーションができますから、企業とつながらなくても個人で続けられる楽しみがあります。そのための準備は徐々に進めているところです。

 あと、もう少し若かったら本格的にやってみたかったと思うのがAI! AIの専門家になるということではなく、自分の専門分野にAIを取り込むことに興味があります。ものづくり技術の世界は個人のノウハウにかかわる部分が多く、それをいかに継承していくかということで10年ほど前にナレッジマネジメントが流行りましたが、その流れにAIが合流してきたと感じています。AIは、現在、第3次ブームといわれていますが、3~40年前の第2次ブームも経験した身として、今度こそものになるのでは?と期待しています。が、もう自分で取り組むのはやめて、外野からの見物を楽しみたいと思ってます(笑)

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私の技術者人生(18) [技術者人生]

 新しい生活が始まり、毎月2週間の海外業務をすることになりましたが、毎日びっしりと予定が詰まっているわけではありませんでした。技術相談(コンサル)が3~5件にセミナー講演が1回というのが平均的なスケジュールでした。したがって、2週間、つまり10日間のうち、2~3日はコンサルとセミナーでそれ以外の日はそのために資料作りという割り振りになりました。セミナーの内容はファンに関するものがメインで、設計から騒音対策の基礎的なところから始めて、最新の技術動向や論文紹介などを毎回1~2時間で行ないました。これを約2年間続けました。この間は毎月のセミナー資料作りが結構大変だったのですが、この時の資料は自分の専門技術をまとめたものになり、その後、あちこちで使うことができたので有益な時間でした。結果オーライになりますが、本来はこういうまとめを転職前にやっておくべきなんだろうな、と感じた次第です。

 一方、日本にいる2週間は遊んでいたわけではなく、日本での業務開拓を考えていました。といっても、営業活動が得意なわけではなく、前職でのつながりで仕事を続けていました。これは、予定していた契約ではなく、先方から要望されて出てきた仕事だったので、私としては非常にありがたい仕事でした。もともと前職では社内のある部署とファンに関する共同研究を行なっていたのですが、私が退職するにあたって代わりを務められる人材がいないということで、引き続き協力を頼まれたということです。技術者としてはちょっと胸を張りたくなる依頼でした。その後、このような前職がらみの仕事が他にも入ってきて、営業活動をすることなくクライアントが増えてきたのは本当にラッキーでした。また、このつながりで学会へ論文発表する機会も与えられ、技術者としての満足感も得ることができました。ただ、日本の仕事はボリューム的にはあまり多くなく(つまり、収入的にも多くなく)、日本にいるときはかなり自由時間があるという生活を送れましたので、これまたラッキーでした。普通に勤めていたら行けなかったであろう旅行にも行くことができました。

 あと、単発の業務として、ファンに関するセミナーの講師を務めることが数回ありました。これは、それ自体はたいした収入にはなりませんが、その時の受講生が新たなクライアントになる可能性があるので積極的に引き受けています。いわば営業活動です。この時に、上で述べた資料作りが役に立ちました。

 メインの海外業務は毎年の契約更新、国内の業務も半年毎か、毎月の発注という形でサラリーマン時代に比べると定年までの安定収入という点では大きな不安がありました。52歳で退職したので、いわゆる定年年齢の60歳まで8年ありました。この8年を無事に乗り切れれば、まずは、転職成功と考えてやってきました。そして、2018年8月、無事に還暦を迎えることができました。この8年間を振り返って、前職を続けていたら・・・と考えることもありますが、「やめてよかった」と自信を持って言えるのがうれしいです。

 現在、転職9年目です。昨年、60歳に達しましたが、まだ、年金はもらえません。私の場合、老齢厚生年金の特別支給がもらえるのが63歳からです。したがって、63歳までは今まで通りに働きたいというのが60歳到達時の次の目標になりました。今のところはほぼ順調に進んでいますが、60歳になってからの気持ちの変化というのは思った以上にありました。このあたりについては次回に書きたいと思います。

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私の技術者人生(17) [技術者人生]

 2011年5月から新しい生活が始まりました。ひと月の約半分、2週間を海外で暮らす生活です。海外での生活はもちろん初めて。海外への単身赴任がどうなるかは見当もつきませんでした。ただ、何でも食べられるのと、海外旅行は割と経験していたのであまり不安はありませんでした。

 5月から本格業務開始だったんですが、4月に、一度、現地へ行ってセミナーを行なうということがありました。常駐の通訳が居て、日本人を受け入れる環境は整っている印象を受けました。この時はホテルに泊まって1泊で帰ってきましたが、空港からの距離や会社の様子、街の様子を知ることができました。

 そして5月の本格業務開始。この時は2週間どこに泊まるのかも知らされずに現地に向かいました。結果的には会社の寮に泊まることになりました。その寮には同じ立場の日本人もいることがわかり、少し安心しました。

 翌日から本格業務開始。通訳さんは常駐しているんですが、私と同じような立場の日本人は数名いるので、常に一緒にいるわけではなかったのです。したがって、その時は担当者と英語でやり取りすることになりました。英語は苦手ですが、相手も母国語ではないので何とかやり取りできました。具体的な業務は、私の専門技術であるファンや流体に関する技術相談対応と毎月のセミナー開催ということになりました。
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私の技術者人生(16) [技術者人生]

 2011年の年が明けて、転職という大きな節目だなぁと思っていたのもつかの間、2月の半ばに突如「あなたの受け入れができなくなった」という連絡が転職予定企業から入ったのです。あまり突然のことでいったい何が起きたんだ!というのが正直な思いでした。どういうこと?! 結局は、先方企業の前年業績が非常に悪くなったので新しい採用を中止した、ということでした。確かに、まだ、契約書は交わしていなかったので法的な問題はありません。しかし、報酬や勤務体系の条件は文書で確認しており、お互いに了解していたのでこんな形で一方的に解消されるとは思っていなかったです。

 それからしばらくは非常に不安な日々でした。まずは先方企業の担当者と連絡を取り、予定通りの採用ができないか?ということを交渉するとともに、新たに別の就職先を探す活動を始めました。当時、もう1社オファーのあった会社はすでに断っていたのですが、あらためて再交渉できないかということを打診しました。併せて、転職コーディネータの方に連絡して、他に候補がないか調べてもらいました。この時はまさに藁にもすがる思いでした。
 まず、転職予定だった企業とは全く交渉の余地はなく、紹介窓口だったエージェントもサジを投げる始末でした。
 再交渉の可能性を打診した企業は、一応、話を聞いてくれましたが、一度断っていることもあり、不信感を持たれているのは明白でした。
 そこで、転職コーディネータに期待せざるを得なかったのですが、あまりに急な話でしたし、上述の再交渉を打診していた企業は、もともと、このコーディネータからの紹介だったので、自分勝手なお願いをしているという引け目もありました。しかし、そこはプロ。すぐに、新たな企業を紹介してくれました。しかも、先の企業と比べて遜色ない同業界の企業でした。つまり、仕事内容はあまり変わらないということです。
 さらに、フルタイムの勤務だけでなく、非常勤も可能ということでした。これは、私としては非常にありがたい条件でした。というのは、ゆくゆくは技術士としての独立ということも考えていたからです。つまり、転職を機に、技術士としての個人事業も始めることができるわけです。もちろん、フルタイム勤務よりは給料が少なくなるでしょうが、サラリーマンと個人事業主を兼業できるということはリスク分散という意味で非常に魅力的でした。
 突然の契約解消の連絡を受けてからほぼ1カ月後、新たな契約先が決まりました。約2週間/月の非常勤勤務という条件で、報酬面では日割り計算すれば他の転職候補社とほぼ同等でした。もちろん当時の実収入よりは数10%のアップでした。

 こうして、2011年3月末で28年間務めた企業を退職しました。4月いっぱいは個人事業主として技術士事務所の立ち上げ手続きとリフレッシュに充てて5月から心機一転新しい業務を始めました。

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私の技術者人生(15) [技術者人生]

 燃料電池関連のテーマから少し離れて、ファンの仕事に軸足を移したものの、社内の流体課題に対してCAEで支援するという部署のミッションがありますので、ファンの仕事ばかりできたわけではありませんでした。今、当時の資料を見返してみると、1年に6~8件のテーマを扱って、そのうちファン関係は1、2件程度でした。
 それでも、年齢的にも、役職的にもかなり自由にテーマ設定ができる立場でしたので、大きな不満を抱くことなく数年過ごしていました。

 しかし、50歳を過ぎたころ、つまり、転勤してきて10年過ぎたころにこのままでいいのだろうか?という気持ちが強くなってきました。もともと転勤のきっかけは同じ所に長くいることへの疑問だったわけですが、同じような状況になりつつあったわけです。
 また、以前から社内の他部署から「異動して来ないか?」という誘いがあったのも事実です。それまではあまり積極に考えてなかったのですが、この頃には少し本格的に考えるようになりました。さらにこの頃、同じ分野の技術者ということでかなり以前から交流のあった他社の技術者が転職してくるということがあり、自分自身の転職ということも視野に入れるようになってきました。

 実は、転職ということを考えるのはこの時が初めてではなく、その数年間にも一度あったのです。何がきっかけだったかはもうよく覚えていないのですが、転職サイトのようなところに登録したことがあり、転職コーディネータのような方とのつながりを作っていたのです。2005年頃だったと思います、ファン技術の専門家を求めている海外の企業があるということで先方へ出向いて面談をするところまで経験しました。結局は条件面で折り合いがつかず、転職には至りませんでしたが、こういう選択肢もあるのだなということは実感しました。

 それから、4、5年して改めて転職を考えるようになったわけですが、偶然というのはあるもので、同じような時期に2か所からお誘いの話が出てきました。いずれも海外の企業でしたが、ひとつは海外の現地勤務、もう一つは日本法人での勤務ということで、かなり違いはありました。当時、海外勤務にあまり抵抗はなく、年齢的にも最後の挑戦だなぁという思いがあったので現地勤務のほうを第一候補で話を進めていました。報酬面ではそれほど差はなかったように思います。
 その年の職場忘年会で退職の意思表示をして、年明けてから退職手続きを進めていきました。すべて、順調に進んでいると思っていたのですが、このあと、大どんでん返しがありました。
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私の技術者人生(14) [技術者人生]

 新しい職場に移って6、7年たった頃に新しいテーマに巡り合いました。燃料電池です。燃料電池の心臓部は化学反応の分野になるので私の専門ではないですし、当時の燃料電池解析はまだまだ開発途上でしたので先の見えないチャレンジでした。ただ、最初から難しいところに挑んだのではなく、周辺機器やシステム全体の熱気流の課題から取り組んでいきました。つまり、技術的には対流や伝熱の問題です。
 家庭用燃料電池システムは発電部分以外にも燃料となる都市ガスの改質部や給湯用の熱回収部など多くの部品からなり、それぞれの熱効率がシステムの性能に影響するのです。そこで、個々のパーツに分けた解析からそれらを組み合わせた全体解析へと広げていきました。
 この少し前に、大学でCFDを専門的に学んできた新人が私の部署に入ってきました。CFDで有名な教授の研究室の出身なので入社当時からCFDに関する知識は抜きんでていました。私はあくまでファン技術が一番でCFDはそのためのツールという立場なので、燃料電池に面白みを感じていたもののどっぷりと浸かるつもりはありませんでした、したがって、数年間、その若手と一緒に燃料電池解析に取り組みましたが、その後は彼に任せて、私はファン関連の技術に軸足を戻しました。

 その若手はその後しばらく燃料電池解析を続けましたが、燃料電池の専門家になるのではなく、解析技術の専門家として別のテーマに取り組んでいきました。

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私の技術者人生(13) [技術者人生]

 新しい職場はコンピュータシミュレーション、いわゆる「CAE」を活用した技術支援の部隊でした。特定の商品開発事業部に属するのではなく、全社的な支援組織でしたから対象商品はいろいろなものがありました。オーディオや映像機器などそれまではあまり縁のなかった商品も扱うようになりました。これらの商品はファンを使っていないことが多いので気流の解析というよりは放熱の解析がメインでした。
 全社の支援という立場から自分でテーマを決めることはしにくかったですが、ファンの仕事も細々と続けていました。同じ部署の上司だけでなく、周囲の人は全員、ファンのことがわからないので、完全に自分の裁量で進められるメリットがありました。以前開発したファンの設計ソフトの改良やファン性能の解析技術などもこの時期に進めることができました。

 この頃、超音波を用いた機器の開発にも関係する機会があり、超音波の伝播を解析できないかという相談を受けることがありました。当時、超音波を専門に扱うソフトウェアはすでにありましたが、それは波動方程式をベースとしたもので、静止した媒質中を超音波が伝播する現象を扱うものでした。私が相談を受けたのは空気中を伝播する超音波を扱うもので、媒質である空気の流れも考慮した解析が必要でした。超音波(音波)は空気の粗密波なので、空気の圧縮性解析を行なえば扱えるはずという考え方は一般的でしたが、精度を上げるためには膨大な計算量が必要だと思われていましたので実際の計算例を見ることはほとんどありませんでした。
 そこで、精度はあまり求めずに定性的な現象を捉えることを狙ってテスト計算をしてみると意外にそれらしい結果を得ることができました。依頼者も興味を示し、しばらくその検討を続けることになりました。音波の反射や回折なども表すことができ、直接波と反射波の重なりによって受信波形がどのように変化するか?など面白い評価に使えることがわかりました。もっとも、超音波の周波数が高くなると計算の時間分解能や空間分解能を上げる必要が出てくるので、実際の現象よりは低い周波数で計算するという工夫(妥協)が必要でした。
 当時、このような評価に市販の流体解析ソフトを使用している例はほとんどなく、ソフトウェアのベンダーに話をしても「そのような使い方は想定していいないので結果についてのコメントは一切できない」という返事でした。
 しかし、その1、2年後に流体騒音の解析がトピックスとして取り上げられることが多くなってきました。メインの計算手法は現在も主流となっている分離解法と言われるものでしたが、最も原理的な手法として上記の圧縮性解析の方法も含まれていました。世の中のトレンドになる前に手掛けていたというのは少しいい気持でした。
 騒音解析については、ファンの開発を行なっている者としては非常に魅力的でしたが、当時のハード、ソフトのレベルではとても実用になるものではなく、まだまだ一部の大学で研究中というレベルだと認識していました。

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私の技術者人生(12) [技術者人生]

 転勤後の話を書こうとしたところ、転勤時の状況を少し詳しく思い出しました。転勤前にシミュレーションの業務が増えていたころ、本社でCAEを普及させようという全社プロジェクトができたのです。CAE主体の大きなプロジェクトに予算が付くということは非常にまれだったので、全社の関係者がここぞとばかりに参加したように思います。私もエアコン関係のファンを対象として、CAE技術を開発するというテーマで参加しました。
 ファンのシミュレーションというは、当時、まだまだ実用には遠い段階でしたのでかなり条件を絞った覚えがありますが、なんとか実用化といえるレベルにすることができました。このプロジェクトを通じて一緒に仕事をした部署からお誘いが来たのでした。
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私の技術者人生(11) [技術者人生]

 ファンとシミュレーションの仕事はそれから数年続きました。が、当時はまだシミュレーションで新しいファンの開発ができるような状況ではなく、試作実験による開発がメインでした。しかし、何とかシミュレーションを使い物になるようにしようと努力していたように思います。ただ、周りの目は冷ややかで、コンピュータで遊んでいるように見られるのが普通でした。

 そうして数年過ごしているうちに一つの転機がやってきました。社内でコンピュータシミュレーションをメインで行なっている部門からお誘いが来たのです。

 当時の部署に不満はなかったのですが、入社以来ほぼ15年間、同じ研究所に勤務していたことに違和感を感じ、転勤を決意しました。大学の先輩は当時の上司ではありませんでしたが、周囲の人は気心の知れた人ばかりでしたので、新しい環境に移ることは決して楽しいことではありませんでした。基本的には人見知りで、新しいチャレンジを好むという性格ではないので今思うとよく決断したなぁという気がします。
 ただ、15年間同じ環境にいるということは生まれて初めてのことだったので、「やっぱり変わらなければならない」という気持ちが非常に強かったのを覚えています。しかも。来て欲しいと請われての転勤ですから悪い話ではないとも思いました。ただ、当時はすでに課長職相当の役職でしたのでちょっと珍しい転勤ではあったようです。

 こうして約15年間務めた職場を離れて新しい職場でコンピュータシミュレーション「CAE」をメインとした仕事をすることになりました。
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私の技術者人生(10) [技術者人生]

 全社プロジェクトで小型ファンの開発を行なったあと、しばらく、ファン開発から離れることになりました。当時、実用化が進みつつあったコンピュータシミュレーションに本格的に取り組むことになりました。1980年代後半は流体解析の商用シミュレーションソフトが発売され始めた時期で、FLUENT、STAR-CD、STREAMなどの著名なソフトは現在にも引き継がれてきています。
 私はこのような市販ソフトを使用するだけでなく、自社で作る、つまりプログラミングするところにも携わりました。学生時代にプログラミングの経験はあるものの、プログラマーとしての本格的な教育は受けていないので苦労しました。プログラムを作ろうとしたのは、当時の市販ソフトは機能が十分ではなく、私が専門としていたファンの性能評価を行なえるものがなかったからです。かなり専門的なプログラミングで、かつ、大規模な開発になるので関連部署と協力して開発を進めたのですが、結局は十分なものはできなかったように記憶しています。
 当時はシミュレーション技術が急速に進歩している時期であり、自分たちで開発するよりも、ソフトウェアベンダーの開発のほうが速かったのです。自分たちでやり始めて数年経つとある程度のものはできたものの、その時点ではソフトベンダー各社から同等以上の機能を持ったソフトが販売されるようになっていました。
 そこで、自力開発はあきらめて各社のソフトを導入するためにベンチマークすることにしました。ベンチマークしたのは3社で、海外2社、国内1社でした。当時はコンピュータシミュレーションに絶対的な精度を期待する時代ではなく、実際、ファン解析の精度という点では大きな差はなかったように思います。精度が決め手にならないとなると重視されるのは使い勝手です。ファンのような曲面の多い形状を扱う場合、解析のメッシュを作るのが非常に複雑になります。現在はいろいろ便利な機能ができているのですが、当時はメッシュを作るのが大変な手間だったのです。
 それと、もう一つはパソコンで使えるソフト。当然、パソコンの性能は現在と比べると非常に劣っていましたから、流体解析のような科学技術計算は大型計算機やEWSと呼ばれる専用マシンで行なわれることがほとんどでした。ところが、EWSを管理するためにはそれなりの専門知識が必要となり、パソコンの管理とは格段に面倒だったのです。また、価格的にも非常に高価なものでした。
 会社やソフトの名前は変わってきていますが、今でもこの3つのソフトは流体解析の代表ソフトとして残っています。そのうちの一つを選んで社内に導入したのですが、他の2社とも良好な関係を続けることができ、いろいろと情報交換させていただきました。
 こうして、ファンの性能解析をするようになり、試作実験による開発経験とコンピュータシミュレーションによる性能予測というハードとソフトの両面からファン開発を行なうスタイルができてきました。


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