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私の技術者人生(9) [技術者人生]

 エアコンで初の商品化経験をした後も引き続きエアコン関係のプロジェクトに参加し、室外機用プロペラファンの開発を続けました。この時は大きなモデルチェンジのタイミングで、エアコンの形態を大きく変えるということだったので、それに合わせてファンも最適化するという取り組みでした。機器全体の構成変更に合わせて、これまで4枚羽根だったファンを3枚羽根に変えて、小型化しながら風量を増やすということができました。
 このプロジェクトは全社的な大きなプロジェクトの一環であり、完成時には対外的にも成果発表を行なったのですが、個人的には大きな失態を演じてしまいました。
 成果発表の展示会が東京で行われるので、私も説明員として東京へ向かったのですが、体調を崩し、東京駅へ着くなり病院へ直行し、そのまま入院してしまったのです。宿泊出張の予定でしたので着替えなどの問題はなかったのですが、業務は一切出来ず、いろいろな方に大変ご迷惑をかけてしまいました。
 結局、2泊3日の出張予定が2泊3日の入院に変わり、予定通り(?)に帰ってくることができましたが、周囲にとっては展示会で忙しい出張先で迷惑この上なかったと思います。

 ちなみに、この時の開発品もその後無事に商品化されました。



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私の技術者人生(8) [技術者人生]

 研究所でファンの基礎研究を中心に行なっていましたが、入社5年目あたりで商品化にかかわる仕事を経験しました。前にも書いたように、入社したときはクロスフローファンというファンの研究をしていたのですが、その後、プロペラファンの研究を始めていました。扇風機の羽根のようなファンですが、扇風機や換気扇用ではなく、やじはり、エアコン用でした。エアコンの室外機に使われているファンです。
 構造的には非常に単純な構造ですが、羽根は滑らかな曲面で三次元的な形状をしているので、設計して図面に定義するのはちょっと厄介なファンです。そこで、その三次元的形状を数値的にきちんと定義するパラメータを設定し、そのパラメータを用いて羽根形状を定義する設計プログラムを開発しました。そのパラメータと設計プログラムを用いて、羽根の形状とファンの性能を体系的に検討し、形状の最適化を進めました。
 そして、ファン単体として性能向上したファンを製品に組み込んで、商品としての目標性能を満たすように最適化を行ない、量産化するという経験をしました。
これがその時のファンです。

AC_mff.jpg

この仕事は研究所を離れて、エアコンを開発する部署のメンバーと一緒になって進めました。約1年半ほどの期間でしたが、入社以来の配属部署を離れて別の部署のメンバーと毎日仕事をするという経験は非常に新鮮であるとともに、商品に近いところで仕事をするというのもいい経験でした。もともと研究志向の私でしたが、この時の経験で自分の技術が商品化される喜びを実感しました。この時に一緒に仕事をしたメンバーは上司、先輩、同僚、後輩などすべてがその後の会社生活の中での貴重な人脈となりました。

ちなみに、この時開発したファンの設計ソフトは、その後も改良を重ねて、現在でも開発現場で活用されています。

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私の技術者人生(7) [技術者人生]

 研究所での基礎研究ということで大学の研究に近い仕事をしていたわけですが、やはり、企業での研究ですから大学との違いはいろいろと出てきました。
 一番はお金、研究費の問題です。私が研究していたファンはエアコンで多く使われていましたので、エアコンを製造している部署からの委託研究だったのです。したがって、一定期間ごとに報告をしたり、年度末には成果をまとめる必要がありました。その時、かかった費用の収支も記載するのですが、新米の私がよくわからずに自分の人件費と研材費だけを正直に書いたところ、エアコン部署の課長さんから「えっ、それだけしかかからないの?」と言われてしまいました。
 実際には、上司の工数や組織としての管理費用などいろいろ追加するものがあり、そういうものをすべて合わせて委託研究費の金額が決まっているということをあらためて知りました。
 それでも、当時いた研究所は基本的に与えられた予算の枠内で研究活動をすることが多かったのと、私が管理職ではなかったということで、予算をとってくる苦労というのはほとんど経験しませんでした。
 ただし、同じ研究所という名前でも、部署によっては予算確保が一番の仕事になるところもあるということを後になって知ることになります。


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私の技術者人生(6) [技術者人生]

 就職して企業のエンジニアとなり、文字通り技術者人生の始まりです。配属されたのはファンの性能に関する研究部署でした。先のブログで書いた先輩がいる部署です。先輩といってもかなり離れた先輩で、当時すでに課長で、私の直属の上司となりました。
 最初に担当したテーマは学生時代にアルバイトしたのと同じファンの研究でした。
cff01.jpg
  [注]エアコンに使われているものはもっと横に長いです
このファンはクロスフローファンというもので、身近なところではエアコンの室内機に使われているものです。あまり目に付くものではありませんが、円筒状の細長い形状をしており、扇風機のファンなどとはかなり違うものです。ファンの種類は大きく分けて3つあり、扇風機のような軸流式、掃除機に使われている遠心式、そして、このクラスフローファン(横流式)となります。当時、この中でクロスフローファンだけが動作原理・メカニズムが明確に解明されていないということでした。そのような厄介なファンを入社してすぐに担当したということが後になって非常に役に立ちましたが、当時はそんなことは考えてもいませんでした。
 この研究テーマは先輩が数年前から続けていたもので、クロスフローファンの流れのメカニズムを解明し、効率を向上させるというのが目的でした。当時はコンピュータシミュレーションが普及する前ですから流れを調べるのは実験計測しかありません。しかも、回転する羽根車の中を測るわけですから、いろいろ複雑な仕組みが必要となります。ただ、そのような計測のための実験装置はすでに完成されていたので、ファンの内部の流れを調べるという本来の目的にすぐに取り掛かれたのはラッキーでした。
 こうして、いろいろと条件を変えながら実験を繰り返す日々が約2年ほど続きました。やっていることは学生時代のアルバイトに近いですし、商品開発ではなく基礎研究ですから大学の研究に似ていました。

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私の技術者人生(5) [技術者人生]

 晴れて大学院生となり新しい研究室ですることになった研究テーマは羽根車の非定常性能の理論解析とコンピュータによる計算でした。非定常性能を表す理論式は指導教官が導いているので、その式を計算するプログラムを組んで、パラメータ・サーベイをするのが私の役割でした。

 方程式の内容は省きますがプログラムはかなり膨大なものとなりました。当時はパソコンが普及する前です。今のようにディスプレイ上でプログラムを入力していくスタイルではなく、1行毎に1枚のカードにパンチし、カードの束を大型計算機のカードリーダで読み込むという仕組みでした。

 カードはお札程度の大きさで名刺程度の厚さでした。大型計算機を使うには計算機センターへ行く必要があり、カードを箱に入れて持ち歩きしていました。カードが並んでいる順番がプログラムの流れですから、うっかり落としてバラバラになってしまうと並べ直すのが大仕事です。ちなみに、カードが2000枚入る箱があって、それを抱えて移動する毎日でした。最終的には2000枚(2000行)を超えるプログラムとなり、箱を2つ抱えて歩き回ってました。

 そういう研究生活を始めて数カ月がたち夏休みを迎える直前になって大きな転機が訪れました。研究室の卒業生のひとりの先輩が「夏休みにバイトに来ないか?」と声をかけてきたのです。当時、どういうことを考えたのかよく覚えていませんが、その呼びかけに応えてM1の夏休みに4週間、その先輩の職場で実験の手伝いをしました。就職の可能性というより小遣い稼ぎという思いが強かったのですが、結果的には2年後にその企業に就職することになり、その先輩が上司となりました。

 こうして現在につながる大きなルートが出来上がったので、自分から積極的に選んだというより成り行きで決まったようにも思います。

 では、その先輩はなぜ私に声をかけてきたのか? のちに上司となった先輩に聞いてみると、研究室の助教授が推薦したとのことでした。何が良かったのかはわかりませんが、いい学生だと思われていたようです。

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私の技術者人生(4) [技術者人生]

私がいた学科の卒業研究は、個人で取り組むテーマというのはほとんどなく、先輩の大学院生の研究を手伝うパターンが多かったです。私もその例にもれず、当時の修士2年の先輩のテーマに一緒に取り組むことになりました。要は、実験補助のような位置づけです。これが普通だったのかどうかはわかりませんが、膨大な実験計画があり、先輩は夜遅くまで実験してました。毎日、毎日、朝から晩まで実験してデータ収集する状態でした。

こうして1、2か月が過ぎ、夏休みが近づいたころに指導教官が言った一言がその後の進路に大きな影響を与えました。
「大学院の試験を受けるのなら夏休みをやるが、就職するんなら8月も実験をしてくれ!」
ちょっと表現は違ったかもしれないけれど、「大学院を受けないのなら夏休みはない」ということでした。当時、私は就職のほうがメインで大学院への進学はあまり考えなかったのですが、このひと言で一気に進学に傾きました。今思えばかなり安易な選択でしたが、深い考えはなかったように思います。

もう一つこの時に大きな転機となったのは、大学院へ進んだ時にどの研究室を選択するか?ということでした。普通は卒業研究をした研究室にそのまま残るのですが、私の卒業研究はちょうど終了するタイミングだったので残ったとしても別のテーマに移らなければならないということでした。そこで、どうするのがいいだろうと指導教官に相談したところ、「〇〇研究室の××先生のところがいいだろう」というアドバイスをいただきました。なぜそこがいいのか?説明を聞いたと思いますがはっきり覚えていません。でも、あまり迷いもせずにすんなりと受け入れたように思います。ちなみに、進められたのは流体系の研究室で羽根車性能のコンピュータ・シミュレーションをしている先生でした。

こうしてひと月の夏休みを得て、9月の大学院試験を受け、なんとか合格することができました。ただ、筆記試験後の面接試験で試験官から言われた言葉は今でもよく覚えています。
「△△君は流体系の〇〇研究室を希望してるけど、流体力学の成績はあまりよくないねぇ」

その後、半年間は先輩の実験を手伝い、卒論を仕上げて、無事に卒業することができました。

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私の技術者人生(3) [技術者人生]

大学は機械工学系の学科でした。

理系は幼いころからの既定路線だったのですが、なぜ機械を選んだかは成績的に狙いやすかったからというのが一番の理由です。当時はまだIT系の企業が隆盛を誇る前で、自動車などのものづくり企業に勢いがありました。特に、自動車に興味はなくとも、機械系はいろいろな意味で潰しが効く学科でした。あえて言えば、電気にはあまり興味がなかったので機械を選んだといえます。しかし、個人的にはIT系(情報系)にも興味があり、伸びるに違いないという思いもあったので、受験願書を出すまで悩んでいた記憶があります。

大学4年になると研究室への配属がありました。卒業研究のテーマ一覧が公表され、学生同士で調整しながら配属先を決めるような仕組みだったと思います。私はテーマの中から「~の~翼に~関する研究」というテーマを選んだのですが、ただただ「翼」という文字にひかれて選んだように思います。もちろん、飛行機の研究でないことはわかってましたが、少しでも飛行機に関係のあることをしたいという気持ちでした。

一方、4年生になると就職ということも考える時期です。今は違うと思いますが、当時は企業から学科に対して数人の募集があり、その枠であればほぼ自動的に就職できました。ここでも学生同士の調整が機能するわけです。私は、一応、航空機関係の事業を持っているメーカを候補に挙げていましたが、希望者が数人いるという噂も聞いていました。本格的な就職活動は夏休みがあけてから・・・というのんびりした時代(or 環境)でしたので、まずは配属された研究室や卒業研究テーマになじむのが先でした。これが、GW頃だったように思います。

ところが、このあと就職活動に大きな変化が起きました。

...

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私の技術者人生(2) [技術者人生]

では、なぜファンの専門家になったのか?
もともと流体の専門家になろうと思っていたわけでありませんでした。
というか、何になりたいという明確な思いを持っている人のほうが少ないと思います。
しかし、私の場合は小さいころからの趣味趣向がつながっているように思います。

私は小さい時から模型が好きでプラモデルをよく作りました。
一方、実際に動くおもちゃも好きでした。中でも飛行機が好きでした。
自分で飛ぶわけではないですが、空を飛ぶということに魅力を感じていたようです。
小さい頃は駄菓子屋で売っていたグライダー。紙飛行機に凝っていた時期もありました。
小学生高学年の頃に流行っていた「タイガーロケッティ」という固形燃料を使ったジェットエンジン(?)の模型には感動しました。そのような模型を飛ばすほど広い公園ではなかったので変なところに飛んで行って苦労したり、迷惑をかけたりしました。

中学に入るとエンジン模型飛行機を飛ばすようになりました。今は聞かなくなった「Uコン」というものです。ラジコンと違ってワイヤーでつながっていて、そのワイヤーで飛行機の動作を手動で操作するので、高価な送受信機が必要なく、中学生でもお小遣いで楽しむことができました。

中学、高校時代は同じ趣味の友人とUコン三昧の日々でした。市販のキットを買ってきて作るだけでなく、雑誌に載っていた設計図をもとにして自分で材料を集めて作った機体もありました。この頃は専門的な知識はなかったですが、飛行性能を決める翼型や失速という現象について模型で経験していました。

大学に入ってからは先の友人とも離れて、飛ばす機会がなくなり、作ることもなくなりました。
ただ、飛行機好きは続いていたようで、時々、航空雑誌を買っていたように記憶しています。
もっとも、いわゆるマニアではなく影絵を見て機種を当てたり、性能や装備を詳しく語るような知識はありませんでした。

こんな状態から、どう仕事につながったのか?


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私の技術者人生(1) [技術者人生]

まず、今の状態から・・・

昨年、還暦を迎えて、普通にサラリーマンをしていればいわゆる定年です。
昨今の状況だと、雇用延長か再雇用で働き続ける人が多いようですが、
私は10年ほど前に早期退職し、個人事業主としていわばフリーランス的働き方だったので、特には変化のない仕事環境といえます。

もともとは大手電機メーカの技術者でした。
大学院修了後、先輩の伝手があり就職して、転職経験はなしでした。
学生時代から流体関係を専攻し、特に送風機、ファンの研究をしていました。
その関係で就職したので、会社でもファン関係の仕事を行ない、専門家としての技術蓄積をすることができました。

もっとも大学でやっていた研究と会社の業務が直結していたわけではなく、会社に入ってから学んだことも多くあります。その一番は「騒音」に関する知識です。学生時代にファンや羽根車に関する研究をしていたので流体的な性能についての知識はあったのですが、会社に入って製品開発に関係すると騒音という評価指標が入ってきました。騒音については全く知識がなかったので、測定方法からデータの評価方法まで一から勉強でした。dB(デシベル)という単位を使うようになったのもこの時からです。

こうして騒音にかかわるようになりましたが、音響的な知識には今でも自信がありません。
ただ、ファンをはじめとして流体に起因する騒音についてはそれなりの知見を持てるようになりました。
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